ひたちで小さなメディアをつくる

居心地のいい場をつくるために”小さなメディア”がどんな役割を果たすことができるか、日々の試行錯誤を綴っています。

本質追求された言葉のみが人を動かすのでは?

KJ法の真価は、一見バラバラに見える意見やアイディアからその本質を浮かび上がらせること(本質追求)。
本質がくっきりと浮かび上がってくると、今の姿と未来への一歩がくっきりと見えてくる。
視覚と思考の解像度を上げるのにとても有効な手法だと思う。
 
ただ、本質がくっきり浮かび上がってくると、それがあたかも以前から知っていた当たり前のことように思われてしまう。
また、抽象化された本質を現実に適用するには、ブレイクダウンが必要。(そのテーマへの思いと意思(覚悟)のないところでKJ法を使っても無意味という側面もある)
その辺がKJ法の真価をわかってもらう際にネックとなるところ。
 
一般化するということと、本質がクリアに浮かび上がることの違いが大切。
下手なKJ法でのまとめは一般化になって、その真価を発揮できない。
例えば「楽しい町」というのは一般化。
その楽しさの中身が浮かび上がってきて言葉になるのが本質追求。
自分で本質追求した言葉じゃないと人は動けない。
 
それが、加藤哲夫さんの「ことばはその人の中からその人の力で出てこなければ、力にならないのです」という言葉の意味なんじゃないかな。
 
この辺が一番のポイントなのだけれど、この感覚は一緒に図解を作ってみないと伝わらないんだよね。
 
本質追求された言葉は、KJ法によってのみ得られるものではないけれど、KJ法を使うと得やすいことは確かだと思う。