ひたちで小さなメディアをつくる

居心地のいい場をつくるために”小さなメディア”がどんな役割を果たすことができるか、日々の試行錯誤を綴っています。

妹島さんに工場や鉱山跡の再生プロジェクトを

妹島和世さんの情報をネットで検索していたら、妹島さんとミナペルホネンの皆川明さんの対話の記事と映像を見つけ、今聴いています。

www.academyhills.com

www.academyhills.com

youtu.be

聴きごたえがあります。
昨日のひたち子ども大学での妹島さんの授業で紹介されたのは、ローザンヌ工科大学の建物と瀬戸内海の犬島のプロジェクトのお話でした。
犬島の再生プロジェクトは、ひたちの工場や鉱山跡の再生につながるのでは?と感じます。
 
妹島さんには、常陸多賀の工場やセメント工場の再生プロジェクトをやってもらったら、おもしろそう!
あるいは、本山のかつて1万人の暮らす町があった場所の再生・再利用プロジェクトとか。
まずは、大煙突とさくら100年プロジェクトで『大煙突とさくらのまち読本』と『大煙突とさくらのまちガイドブック』ができたら、寄贈したいと思います。
 
犬島を訪れ、今妹島さんのされていることを体感してみたいな。
benesse-artsite.jp

ネットから悪意ある言葉を排除するアルゴリズムを

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GENKANでよく会う大学生と話をしたら、レビューのメタメッセージを抽出する研究をしているという。
悪意を含む情報を排除する自然言語アルゴリズムを作って、ネットにビルトインしてほしい。

ネットやITはバーチャルなんかではありません。小さきものに光を照て、人と人との縁をケアし、私達の生活を豊かに実りあるものにするものだと、僕は信じています」(増田真樹)

ネットには、本来そういう力があるはずなのに、悪意ある言葉によって損なわれている部分が大きいと思うんですよね。
悪意を含む言葉は遮断したい!
 
メッセージとメタメッセージの問題は、わたし自身、考えを深めてみたいテーマ。
メタメッセージがメッセージが伝わるかどうかを決めている部分が大きいと思うんですよね。
自分の発するメッセージのメタメッセージに自覚的であることが大切だと思っています。
自意識過剰のメッセージは、それが障害となって伝わりにくい。
できるだけ自分を透明な存在にすることが、メッセージを発する際には大切なんじゃないかな?
 
そんなことを考えていたら、本棚の『呪いの時代』(内田樹)が目に入った。

新潮文庫版の解説を書いている森田真生の言葉が素晴らしいので、抜粋しておきます。

その言葉はいつも、「正しいこと」よりも「生きる力を高めること」を目指して発せられる。(p.333)

内田樹という書き手に、これだけたくさんの読者が夢中になるのは、言葉にはそれを裏付ける身体があり、論理にはそれを支える倫理があり、理屈にはそれに釣り合う実感があるべきはずだという読者の思いに、内田さんが確かに応えてくれるからだろう。
逆に、言葉が身体を見失い、論理が倫理を忘却し、理屈が実感を放り出してしまうとき、そこに「呪い」が巣食い始める。(p.333)

多くの人がいまの時代に漠然と感じている身体的な違和感を、内田さんは「呪い」というキーワードで、見事に分節してみせたのだ。
身体は精妙に、記号的に分節されている。だからこそ、身体語彙が豊富な人ほど、そうでない人間にくらべて、それを自在に制御できる可能性を持っている。(p.334)


森田真生さん、さすがです!
 
ところで、どうやってレビューの中から感情分類に当てはまる言葉を選び出すのだろう?
抽出する単語と感情を結びつけるデータベースの構築の部分がキモなんだろうな。
また話ができるのが楽しみです。
 
いろんな人と偶然出会い、思いがけない話ができることが、カフェのおもしろいところですね。

いわきで現在進行形の壮大なさくらの物語

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『空をゆく巨人』(川内有緒)を一気に読みました。

この厚さの本を一気に読むのは、久しぶり。
 
こんなすごい人が近くにいて、現在進行形で壮大な物語が進行しているんだ!
ここからいわき回廊美術館までは、車で1時間。
oniwa.garden
近々行って体感したいと思います。
 
志賀さんは、現代にこんな人がいたんだ!
とびっくりする、スケールの大きいひとです。
 
明治時代は、こんな方がたくさんいて、時代を切り開いていったんでしょうね。
久原房之助や角弥太郎、関右馬允も、そんなひとだったのでしょう。
 
角弥太郎さんや関右馬允さんのことがきちんとしたノンフィクションで描かれていないのは、ほんと残念!
大正時代に、煙害で荒れ果てた山に1000万本の植樹をしたのは、ほんとすごいことだと思う。
 
その物語を川内有緒さんのような、確かなノンフィクション作家に描いてもらえないかなぁ!
18日にお話を伺えるのが楽しみです!
 
トークイベント「“地域”の文化は何がつくる?―ケンポク、いわき…、となりの物語をきく―」
maisonkenpoku.com

今ここにある光を言語化し、冊子として残す

自分のブログで木村俊介さんのことを検索したら、こんな記事を3年前に書いていました。
munaken.hatenablog.jp
今読んでも、ほんとそうだな!と思います。
 
「一見行き詰っているように見える町の中にも光はあるはず。
その光を見出し、意識を向け、育てていくことで町は変わっていくんじゃないかな?
やるべきことは、今ここにある光を見い出すこと。
(よそから何かを持ってくることではない)」
 
こういうことを大煙突とさくら100年プロジェクトではやっていきたいとおもます。
私がリーダーを務める「史料編纂チーム」がやるべきことは、今ここにある光を言語化し、冊子として残すことなのかも。
 
#居場所をつくる #大煙突とさくら100年プロジェクト

まちの未来を語り合えるプラットフォームづくり

「このマップを手に行政と市民、企業がお互いの立場を離れ、フラットな関係で一緒にまちあるきしてひたちの大切な記憶を思い出し、その上で一緒に町のワクワクする未来を考えるのに使ってほしい、というのが一番の望み」というのは、大煙突マップをつくっていた頃、ブログに書いて言葉。
munaken.hatenablog.jp
 
この思いは、大煙突とさくら100年プロジェクトに関わっている現在でも変わらない。
 
大煙突マップは、現在に過去を重ねることで見えてくる豊かな世界を表現したいと思ってつくった。
その上で、未来マップをつくることで、「町の記憶を思い出し、ワクワクする未来を描く」というところまでやりたいと思って、やりかけたが、最後までやれなかった。
 
大煙突とさくら100年プロジェクトでは、「町の大切な記憶をベースにワクワクするひたちの未来を描く」というところまでやってみたい。
 
大煙突とさくら100年プロジェクトで私がやりたいのは、「フラットに立場を超えてひたちのまちの未来を語り合えるプラットフォームづくり」なのかな?
 
でも一方で、闇雲に人を集めてもしょうがないという思いもある。
町にとっては「フラットに立場を超えてひたちのまちの未来を語り合えるプラットフォームづくり」は必要なことだと思うけれど、それが私がやりたいことなのか?
そこをハッキリさせることが大切。
私の場合、自分が本当にやりたいと思わないかぎり、身体が動かなくなってしまうから。
 
その辺の兼ね合いを探りながら、プロジェクトを進めていこうと思っています。

各々が肚落ちするところからリスタート

「肚に落ちたとき自然と内側も外側も解決する」
munaken.hatenablog.jp

13年目の耳と聲プロジェクトを「やっている」から「やっていく」への転換が今必要。
ear-voice.info

各々が何のためにこのプロジェクトをやり、そのためには自分は何をすればいいか、肚落ちすることが今大切なこと。
その第一歩として、「トマティスメソッドをどう伝えていきたいか?」「そのためにはどうしたらいいか?」というテーマについて各々のメンバーに200字から400字程度の文章を書いてもらい、それをみんなで読んだ上でワイワイガヤガヤ話し合い、その上でまた文章を書き、…というのを3回やってみることにした。

そのプロセスで必要があれば、KJ法の花火も使おうと思っている。
この状況から次への一歩を見出せなければ、自信を持ってKJ法を伝えていけないだろう。
「答えのない問題に答えを見出していくのがKJ法」だと自分自身が説明しているのだから。
munaken.hatenablog.jp
 
ここが正念場。
踏ん張りどころです。

#耳と聲 #考えを深める会

文章を深めるプロセスで認識が深まる

何気なく発した言葉が人間存在のどれぐらい深い領域から出てきたかによって決まる。そして驚くべき合致によって、その言葉はそれを聞く者の同じ領域に届く。それで、聞き手に多少の洞察力があれば、その言葉がどれほどの重みをもっているかを見極めることができる」(『愛するということ』エーリッヒ・フロム、p.78)

声の力 - ひたちで小さなメディアをつくる
 
文章を読むと、この文章は「深い」とか、「浅い」とか感じる。
その文章の書き手が、どれだけの深さで書いているかが文章には表れているのだろう。
 
「浅い」と感じてしまう文章をどうすれば、「深い」文章にしていけるのだろう?
書き手が自分の中に深く降りていくしかないのか?
自分の経験、体感を言語化するトライを続けていくことで、深い文章にしていくことができるのだろうか?
 
編集者は、その伴奏者として書き手が深い領域に降りていくのをサポートする存在なのかな?
 
浅い文章を深い文章にブラッシュアップしていくプロセスの中で書き手の理解は深まっていくのだろう。
 
マティスメソッドのような、身体の使い方のメソッドのエッセンスをテキストで残し、そのメソッドをひとに伝えられる人を育てるには、師のチェックを受けながら、この言語化のプロセスを丁寧に積み重ねるしかないのでは?
 
マティスメソッドの発声トレーニング(CAV)の冊子を編集・制作しながら、そんなことを考えています。