昨日、落ち葉ネットワーク里美主催の田植えに家族で参加した。
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実家が農家で小学生の頃までは手植えだったし、1988年から3年間、信州の八ヶ岳の南麓で田んぼをやっていたので、手植えの経験はある。
30年近くぶりの田植えだったが、思った以上に身体がやり方を覚えていた。
田んぼに紐を引っ張り、その紐に沿って一列に並び、一斉にどんどん植えていく。
素足に泥を感じ、みんなと協力しながら植えていく感じ、やっぱりいいなぁ!と思った。
私が小学生の頃までの田植えは手植えだったので、たくさんの人手が必要で、田植えの時には親戚や近所の人たちがたくさん手伝いに来てくれ、田植えが終わると、宴会でお祭りのようだった。
あの時の感覚が蘇って来た。
私の実家も、中学生の頃からは田植機が導入され、田植えは家族単位の作業となった。
田植えは、田植機で植えるとあっという間に終わる。
効率で言えば、田植機の方が何十倍もいい。
しかし、手植えから田植機に切り替わることで失われてしまったものもある。
手植え自体の楽しさや人とのつながりなど。
田植えは、一人でやるととても大変な作業だ。
私自身、信州での田んぼづくり3年目は一人で一反近くの田んぼの田植えをやったことがあるので、それは痛感している。
しかし、大勢でやるとそれはお祭りとなる。
田んぼというのは、稲の苗を作り、代掻きまでやってもらえば、あとは人海戦術でできるところがいい。
誰でも参加できるのだ。
自分たちの命の源となるお米は、こんな風にみんなで田植えをし、草取りをし、収穫して作るのがいいんじゃないかな?と思った。
効率を追求せず、あえて手間をかけてやることで得られるものがきっとある。
効率を上げて時間を手に入れるより、手間をかけてやることで得られる体験を充実させる。
そんな未来がいいんじゃないかな?
「生きるための目的地」をひたすら行き来することで、私たちの人生は終わってしまうのかもしれない。
でも、私たちの人生がもし「道を歩く」ようなものだとするなら、「目的地」だけが意味を持つわけではないのかもしれない。
「道を歩くこと」自体にも、意味があるのかもしれない。(石井ゆかり)
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あえて手間をかけることで、時は止まり、その中身が充実していく。
ひとつひとつ、ていねいに、おこなうことが、ゆいいつ、じかんを、とめる、ほうほうだ。いそいで、おこなえば、ときも、いそぐ。ていねいに、おこなえば、ときは、まってくれる、かならず。(田口ランディ)
私の今年の一番の目標である「内側から時を満たすように日々を過ごす」に通じる鍵がこの辺にあるように感じる。
munaken.hatenablog.jp
『モモ』のさかさまこうじの喩え。
モモは、こんなにゆっくり歩いているのにどうしてこんなに早く進めるのか、ふしぎになってきました。
(『モモ』p.163)
「速度を上げれば上げるほど進まなくなる」
「彼女は、ゆっくり進むほど速く行けました」
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