考えるということは、耳を澄ますことなのかもしれない。
自分の内側に耳を澄ますこと。
自分を取り巻く世界に耳を澄ますこと。
もやもやを抱えて歩くうちに、自分の中からふっと考えが浮かんでくる。
歩くことで身体と対話し、自分をニュートラルにする。
そのために私は日々歩いているのかもしれない。
糸井重里さんの「感じる、思う、考える」という言葉をこのところずっと抱えて歩いています。
この手順をきちんと踏んで納得がいったとき、人は具体的な一歩を踏み出すのではないだろうか?
「考える」レベルでいくら議論をしても、対立するだけ。
一緒に「感じる」「思う」ことをやることで共感が生まれ、そこから共に未来へと歩みだすための考えが生まれるのではないだろうか?