ひたちで小さなメディアをつくる

居心地のいい場をつくるために”小さなメディア”がどんな役割を果たすことができるか、日々の試行錯誤を綴っています。

鉱山電車の記憶

昨年の夏の始まりの頃、日立市郷土博物館で出している「市民と博物館」に「鉱山電車の記憶」というタイトルで寄稿しました。
このブログにも文章をアップしておきます。
大煙突紙芝居プロジェクトに参画しているベースにあるのは、ここで書いた思いです。
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 60年前まで日立には無料の電車が走っていた。日立駅前の新都市広場にあったターミナルから大雄院までをつなぐ5.4kmの鉱山電車だ。
 明治38年(1905年)、久原房之助が大雄院の山側約4kmの本山にあった赤沢銅山を買収し、日立鉱山と改称して経営に乗り出した。久原は、優秀な人材と最新技術を投入し、鉱山の経営を軌道に乗せた。宮田川沿いに所員合宿所を手始めに、職員の社宅やアパート、小学校を建設。久原は「自然・地域と共存共栄する理想鉱山都市」の実現を目指し、福利厚生を充実させ、供給所や病院、劇場なども本山に作った。鉱山が栄えていた頃、本山には社宅やアパート、学校、病院、商店が立ち並ぶ1万人が暮らす町があった。
 明治41年(1908年)には、大雄院精錬所の創業を開始。助川駅(現・日立駅)から大雄院間の鉱山電車の運行が開始され、買鉱により規模を拡大。それに伴い煙害被害も著しく拡大した。日立には、その煙害問題を企業と住民が協力し、世界一高い煙突の建設と気象観測による制限溶鉱、植林によって解決したという輝かしい歴史がある。
 鉱山電車の設計をしたのは、日立製作所創始者である小平浪平日立製作所は、鉱山で使うモーターを小平浪平が初めて国産で開発したことにそのルーツがある。日立鉱山日立製作所は、優秀な若者と最新の技術が全国から集まってできたベンチャー企業だったのだ。
 銅鉱石を運んでいた鉱山電車は、人も乗せるようになった。その輸送は、昭和35年(1960年)に廃線になるまで52年間続いた。72歳の義父も、子どもの頃この無賃電車に乗って遊んでいたという。その記憶は、義父たちのように実際にその電車に乗っていた人たちがいなくなれば、いずれ消えていくだろう。
 その軌道跡は、かつてターミナルがあった新都市広場からヨーカ堂のわきを抜けるパティオモール、銀座通りと平和通りの間に延々と続く駐車場という形でたどることができる。その場所を通るたびに、その記憶が消えてしまうのはもったいないと感じる。
 ここに鉱山電車が走っていたと思ってその場所を眺めるのと、ただの駐車場だと思って眺めるのとでは、同じ風景でも見え方は明らかに変わるのではないだろうか?そして、過去の記憶を下敷きとして町を眺めた時に本来この町はどんな町であったか、そしてどうなっていけばワクワクする町になるかが見えてくるのではないか?
 「大煙突マップ」は、そんなことを考えながら作ったものだ。このマップを手に日立で暮らす人が企業や行政などの枠を外して、まずは一緒に町を歩いて感じてみる。その中で思い考えたことを元に町の未来を考えることで、地に足の着いた町の未来像が描け、協力しながら実際に形にしていけるのではないだろうか?
 そのベースとなる冊子やマップをこれからも作り続けていきたい。子どもたちが誇りを持ってわが町を語れるよう、豊かな記憶と風景を残してあげることが、この町に暮らす大人の責任だと思う。