お彼岸に墓参りに郡山の実家に行ったとき、父が一冊のアルバムを出してきた。
私が子供の頃の写真がおさめられたアルバムだ。
私の実家は、私が20代の頃、火事になり、アルバム類はすべて焼けたと聞いていたのだが、焼けたアルバムの中から焼け残った写真を取り出し、まとめたものだという。(なぜ今頃、このアルバムが出てきたのかは、謎なのだが)
そこに写っていたのは、小学生3、4年生の頃の自分だった。
庭で兄弟3人並んで撮った写真や祖父母や叔母と玄関で撮った写真、レジャーランドで兄と並んでいる写真、海水浴に行ったときの写真、焼ける前の家の写真、マラソン大会の後に吾妻スカイラインに行ったときの写真など、たくさんの写真があった。
父は若い頃から写真を撮るのが好きで、焼けていなければ、かなりの冊数のアルバムが残っていたはずだと言う。
1年半前に子どもが産まれてから、子どもの成長する姿を眺めながら、自分はどんな子どもだったのだろうと思うことがよくある。
息子と私はよく似ていると言われるが、小さい頃の自分と息子は似ているのだろうか?と思って、その頃の写真はないので比べようがないと思っていた。
そこにひょっこりと現れた写真たち。
とても嬉しい出来事だった。
私は父母が26歳の時の子どもだから、上の写真に写る父母は35か36歳なのだろう。
今の自分よりも15歳も若い父と母の姿。(父母は同い年です)
その頃の父母は、どんな思いで私たちを育ててくれていたのだろう?
ミシマガジンで平川克美さんがこんなことを書いていた。
「親のルーツをたどりなおすことは大切です。今はあまり実感がないかもしれないけど、もっと親が年を取っていったときに、自分が親のことを何も知らないということに気づく」(平川克美) http://t.co/FaftTsCwji #小さなメディアをつくる
— 宗形憲樹 (@munaken) 2014, 3月 26
「親が亡くなるくらいになったときには、親がどういう苦労をして自分を育てたのかとか、そういうことは知っておく必要があります。今はする人が減ってしまったけれど、生前供養ということですね」(平川克美) http://t.co/gJR0NgRTLc #小さなメディアをつくる
— 宗形憲樹 (@munaken) 2014, 3月 26
この写真をベースに父母の足跡を残す小冊子を作って、父に贈ったらどうだろう?
それは父にとっても嬉しいし、私にとっても大きな意味があるのではないだろうか?
昨年12月、父の喜寿のお祝いをやったとき、写真好きの父に印刷されたアルバムを作ってあげようということになっているのだが、進んでいなかった。
写真集代わりに、小冊子を作るという試みはおもしろい。
どんな小冊子にするか、ストーリーを考えてみようと思う。
私の作りたい「小さなメディア」というのは、こういう小冊子みたいなものなのだと思う。