ひたちで小さなメディアをつくる

居心地のいい場をつくるために”小さなメディア”がどんな役割を果たすことができるか、日々の試行錯誤を綴っています。

里山こそが現代日本のフロンティアなのでは?

昨日、息子と一緒に堅破山に登りに行きました。
わが家から県道36号線〜グリーンふるさとライン〜高原経由で行ったのですが、登山口までが遠かった。
黒坂の集落は山の中にぽっかりと広がっていて、不思議な感じでした。
道は最後の500m以外は予想ほど悪くはなかったけれど、狭くて対向車がいたらどうすればいいんだろう?という感じ。
 
杉林の中を歩く登山道。
登り始めてすぐのところに後生車があり、歴史と宗教色を強く感じる山でした。
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不動石、烏帽子石、畳石、手形石と巨岩が続き、いよいよ太刀割石に対面。
聞きしに勝る不思議な石でした。
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頂上付近には、立派な黒前神社の社殿があり、頂上には螺旋階段の展望台がありました。
昨日は天気が悪くあまり展望は望めませんでしたが、天気がよければいわきの海や富士山まで見えるとのこと。
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展望台の上でおにぎりとおやつを食べて下山。
 
家に戻って、先日たかはら自然塾で購入した『堅破山 黒前神社ものがたり』をザッと読みました。
奥州征伐の大和軍が戦勝祈願したということですから、昔からの聖なる場所なんですね。(坂上田村麻呂八幡太郎義家、佐竹義昌も戦勝祈願をし、徳川光圀徳川斉昭らも参拝したそうです)
 
「茨城」の名前の由来もその本に載っていました。
大和軍の黒坂命が先住民が外に出て遊んでいる隙に住居である穴に茨(いばら)を仕掛けておいて、追い立て穴に帰ろうとしたところ突き刺さって死んでしまったのが由来とのこと。
大和朝廷から見たら、蝦夷征伐なのだろうけれど、征伐された側としてはとんでもない話です。
それが「茨城」の名前の由来とは、なんとも心痛い感じですね。
 
私は堅破山から北に100kmほどの阿武隈山地の山里に生まれ育った人間なのですが、私の中にも征伐された先住民の血や記憶は残っているのだろうか?
その記憶をなんらかの形で蘇らせることができたらいいなぁ!
 
ひたちの奥の奥の山里に分け入り、堅破山に登って、里山こそが現代日本のフロンティアなのでは?
と直観しました。