ひたちで小さなメディアをつくる

居心地のいい場をつくるために”小さなメディア”がどんな役割を果たすことができるか、日々の試行錯誤を綴っています。

『夜と霧』を読んで考えたこと

FBでブログ「楽しい記憶の蓄積が生きる力の源になるのでは?」に内山さんが「「霧と夜」の中でビクトール・フランクルも同じ主旨のことを言っていました」とコメントくださったので、長年積ん読だった『夜と霧』を取り出し、昨日から読み始め、今朝読了した。

夜と霧 新版

夜と霧 新版

内山さんがおっしゃったのは、以下の記述かな?

「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべては現実のなかへ救いあげられている。それらもいつかは過去のものとなるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去であることも、一種のあることであり、おそらくはもっとも確実なあることなのだ。(p.138)

過去の記憶は、心の宝となり、今を生きる力となるのだろう。
 
ヴィクトール・フランクは、未来についてもこう書いている。

人は未来を見すえてはじめて、いうなれば永遠の相のもとにのみ存在しうる。(p.123)

未来を、自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。(p.125)

過去の豊かな記憶を思い出すとともに、信じられる未来を描けることが、今を生き生きと生きるためには必須なのだ。
 
そして、未来を信じられることの大切さを語った後、フランクは、「生きる意味を問う」という節で以下のように書いている。

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりのたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。(p.129〜p.130)

有名な「生きる意味についてのコペルニクス的転回」についての詳細は、こんな文章だったのか!

強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。(p.155)

マップづくりも、図解を作りながら考えを深める会も、未来の目的を見つめ、人生が自分を待っていることを思い出させうるものでありたい。