ひたちで小さなメディアをつくる

居心地のいい場をつくるために”小さなメディア”がどんな役割を果たすことができるか、日々の試行錯誤を綴っています。

私にとってKJ法は対話のツールとして始まった

ゴールデンウィーク前に石井さんとキクアツと上三川の家で飲んだ時に、石井さんから「宗形さんの転機となった出来事は何ですか?」というような質問を受け、その時はうまく答えられなかった。
 
今朝、やっぱり1987年の創造の広場(CS)との出会いが私にとって転機だったのだろう、と思い至った。
 
当時私は、仙台の大学を卒業して大学院に行こうと思ったものの、出身大学には学びたい先生がいなかったので、他の大学の大学院を受けてダメで、そのまま仙台にいてもつまらないと思って、東京に出て、大学院浪人をしていた。
東京に行ってやりたかったのは、KJ法を学ぶことと竹内レッスンを受けることだった。
 
春に竹内レッスンを受けていた時、たまたま隣でCSのメンバーが「今度KJ法自分史というテーマで6月の例会でやるから参加しないか?」という誘いを他の参加者にしていた。
それを聞きつけ、参加したいと表明し、6月の例会に参加。
そこで、KJ法の移動大学のプリテストとしてタイ旅行に行くという話が出て、それにヒョイと乗ってタイに行ってしまった。
決断から出発まで20日間。
初めての海外旅行。
そして、一緒に行く8人を私はまだほとんど知らなかったのだ。
 
出発までの20日間は、メンバー同士の合宿、会合、準備、バイトに忙殺された。
そして、7/20の深夜、バンコクのあのムッとくるような熱気の中に立っていた。
気がつけばタイ、という感じだった。
 
それからの20日間は、実にバラエティに富んだものだった。
喧騒と熱気のバンコクの街、夕暮れのルンピニ公園、たおやかに流れるチャオプラヤー川カレン族の村での水浴び、歌の交歓、スンドク村での田植え、谷口農場でのヤシの植樹、立正佼成会の村でのサッカー、コーンケーン大学の生協など、いろんな光景が頭に浮かぶ。
タイメンバーは、行く先々で音楽やスポーツなどを通じての楽しい交歓を繰り返し、豊かな関係を作り出していった。
 
私自身にとってもタイの人達やタイにいる日本人との交歓は楽しかったが、もっと面白かったのは、みんながその時々で感じたことを出し合う整理研や花火図解だった。
行く先々で、みんながその時々で感じたことをラベルの形で出し、図解にまとめていった。
みんなの感じ方と自分の感じ方を照らし合わせるのが非常に刺激的で、自分の感受性の鈍さを思い知るとともに、みんなの感じたことを聴くことによって自分の感性がどんどん広がっていくような感じさえした。
花火図解や整理研がみんなとの関係を作り上げていく上で非常に威力を発揮していたと思う。
その20日間、いろいろな心の動きがあったものの、当時の私には信じられないくらいみんなといるのが楽だった。
その旅での最大の成果は、みんなで生きることの楽しさを体感したことだった。
 
タイから帰った後も、CSでは、活動の折々で花火図解を作りながら思いを共有し、未来を描いていった。
その経験が私のKJ法の原点となっている。
私にとって、KJ法は対話のツールとして始まったのだ。
 
2011年に仙台で加藤哲夫さんと中野民夫さんの対話の会に参加した際、加藤哲夫さんがKJ法の大切さを語ってくれたことをきっかけに、「図解を作りながら考えを深める会」を始めた。
https://www.facebook.com/kjthinking/
 
長男の誕生で忙しくなって、中断してしまった「図解を作りながら考えを深める会」をそろそろ再開したいなと思っています。