ひたちで小さなメディアをつくる

居心地のいい場をつくるために”小さなメディア”がどんな役割を果たすことができるか、日々の試行錯誤を綴っています。

7回目の母の命日

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今日は、7回目の母の命日。
あの日も上京する予定があったのだけれど、母の容体が悪いという連絡があり、その予定をキャンセルして郡山の病院に向かった。
しかし、着いた時には母はもう亡くなっていて、母の死に目には会えなかった。
朝グズグズせずにもっと早く出ていれば、母の最期に立ち会え、「ありがとう」と言えたのにと思っていまだに悔いが残っている。
 
母は、リウマチの持病を抱えてはいたものの、基本とても元気で、働きづめに働き、私たち兄弟3人と兄の孫3人を育ててくれた。
その母が入院したと連絡があったのは、2008年の正月明け。
私たちの結婚式が2007年12月1日で、その時も元気に見えたのだけれど、実は身体はしんどかったのかもしれない。
年末年始の北欧への新婚旅行から帰り、そのお土産を配りに実家の親戚回りをした時にも、具合が悪いことには気がつかなかった。
 
郡山駅前の病院に入院したときも、まだ元気な様子だったのだけれど、その病院で十分な手当てが受けられずに弱ってしまい、病院の先生の話を聞いても手の施しようがないようなことを言うので、叔母のアドバイスに従い、母を説得し、セカンドオピニオンを別の病院で受け、がんの治療に定評のあるその病院に転院させた。
 
その病院に移ってすぐに手術を受けて、ガンを取り除き、抗がん剤治療を受け、母は回復し、家で元気に過ごせるようになった。
その時私は東京で暮らしていて、折あるごとに新幹線で郡山に行き、母のお見舞いに通った。
1987年に大学を卒業し、東京、信州、札幌、そして東京で暮らしていた頃は、ほとんど実家に帰らなかったのだけれど、母が入院してからは、本当によく郡山の病院に通った。
今思っても、あの時間はとても大切な時間だった。
大学卒業後の20年間の母との空白を埋めるような時間だった。
新幹線で郡山に着き、水郡線に乗って安積永盛まで戻り、そこから病院まで歩いて通った。
母が好きだった氷川きよしの歌をiPodに入れて持って行ったり、ガンには温めるのがいいと聞けば湯たんぽを持って行ったり、手当てをしながらいろんな話をすることができた。
 
私の母は、わが母ながら、とても素敵な人で、子どもとの約束は必ず守り、母に頼んでおけば安心で、親戚との付き合いもすべて母がフォローしていてくれた。
私が信州に行って農業をするようになったのも、母と父と一緒に秋稲刈りをしていたとき、母が「この景色が好きなんだよ」と稲刈りの終わった田んぼと紅葉する山を見て言った言葉が心に残っていたからなのでは?と思っている。
周りの人に骨身を惜しまずになんでもやってあげる人で「見返りを求めずとも、みんなのためにやってあげれば、いつかは自分に返ってくるのだ」ということを身をもって示してくれた。
私の中の大切な部分の多くは、母の影響を受けて形づくられたものだと思う。
 
退院して数年が経ち、もう大丈夫だろうと安心していた頃、ガンが再発したという連絡があった。
私たちがひたちに移り住んで2年目の2010年頃だったと思う。
それからは、どんどん弱ってしまい、生きようという気力が失われ、食欲もなくなっていった。
実家に帰り、こたつに横になる母を見て、これが母か!と思うほど、弱っている時もあった。
 
その後また入院して治療を受けることで、元気を回復し、頭がハッキリしている時もあった。
亡くなる直前、私が信州でのインタビューのワークショップの帰り道に郡山の病院に寄った時は、元気だった頃の頭のクリアさが戻っていて、水郡線経由で病院にお見舞いに来てくれた妻と姉と一緒に久しぶりにゆっくりと思い出を語りながら過ごす時間が持てた。
あの時間は、奇跡のような時間だった。
 
7年前の今日、病院へ向かう道沿いにはたくさんのノウゼンカズラが咲いていた。
あのオレンジ色の鮮やかな花を見るたびに、あの日のことを思い出す。
 
あと1年、生きていてくれたら、息子たちのことを見せてあげられたのにな。
それが返す返すも残念だ。
 
数日前、命日少し前に母の墓参りに行ったとき、姉が母が最後に仕込んだという梅酒を分けてくれた。
今夜はその梅酒を飲みながら、亡き母をしのぼうと思う。

丘の上に立って19年間の歩みを振り返る

信州富士見町から札幌に引っ越したのは、19年前の7月。
36歳の夏でした。
あれから、札幌(5年間)→東京(5年間)→ひたち(9年間)へと移り住み、ひたちでの暮らしも10年目。

初めてのサラリーマン生活、森彦で過ごした時間、植田さんと出会っての円山裏参道でのまちづくり、あれこれ屋で語り合った時間、くうでのライブ撮影、感透音に参加して日原先生に出会ったこと、妻との出会いと結婚、タイフーンで過ごした時間、玉川上水のお散歩、ひたちへの移住、加藤哲夫さんとの出会い、大震災、インタビューのワークショップ、母の死、息子二人の誕生と子育てに追われる日々、『ひたち帖』「十王の魅力再発見マップ」「大煙突マップ」の制作、図解を作りながら考えを深める会の始動、などなど
ほんといろんなことがあったなぁ!

この風景は、よく散歩で訪れていた高台からの風景。
八ヶ岳と富士山、甲斐駒ケ岳が一望できる、大好きな風景です。
頂上の公園にあるブランコは、富士山に向かってこげるブランコでした。
 
明日のクルミドコーヒーでのお話し会「小冊子『耳と聲』ができるまで、そして一冊の本へ」の準備を進めながら、今までの人生を振り返っています。
明日の発表は、「人生の基点と新たな起点」になるような発表にしたいな。
 
「『耳と聲』書籍版を描く」は、グループ編成とインデックス図解までできたので、あとは図解化するのみ。
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「略歴」はできました。
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「メディアクラフトの仕事」もあとは詰めの段階。
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「小冊子『耳と聲』ができるまで」は、今日作り上げます。

なんとか準備は間に合いそうですが、気を抜かずに最後まで集中して、準備を「やりきった!」と思える状態で明日を迎えたいと思っています。

「とにかく書く」を21日間やり続けよう!

note.mu
毎日書いて発信するということは、大きな変化をもたらすんだろうなということは、痛感していること。
毎日ブログを書くことを今年の目標にしていたが、なかなかやれていない。
「とにかく書く」を21日間やり続けよう!とこの文章を読んで改めて決意した。

私の本性は農民なんだろうな

昨年の今日FBに自分のこれまでの歩みをまとめたような文章を書いていました。
走ること、野菜を育てること、KJ法、トマティスメソッド、本づくり、『ひたち帖』、耳と聲プロジェクト、考えを深める会、歳時記…、思えばどれも長いこと取り組んできたテーマです。
内側から時を満たすようにその時々のテーマに一所懸命取り組むことで、自然と実りがもたらされる。
そんな予感が今あります。
「長いスパンで種を蒔き、育て、収穫する」
そんなリズムが私には合っているようです。

このところいろいろな刺激を受け、いろんなことが動き出し、自分の中にモヤモヤとしたものがたまってきている。
そんな時、私は走りたくなる。
思えば、中学1年生の時から走りだして、もう40年以上が経つ。(私は中学、高校と陸上部に所属し、中長距離を走っていた)
私にとって走ることというのは、身体を鍛えるとかそういうことではなく、そうせざるを得ないものなのだ。
走ることで自分を落ち着かせる。
自分の中で消化しきれないものが、走ることでなんとなくあるべき場所に落ち着いていくような感覚がある。
今朝もまた夜が明け出す頃に走りに行こう。
 
自分は農家の息子で、自分の本性は農民だという自覚がある。
1988年に信州に移住してから畑を11年間やり、その後札幌〜東京にいた頃は中断していたが、2009年にひたちに来てからまた畑をやっているので、20年近く野菜づくりをしている。
 
「種をまいて育て、収穫する」というリズムというか、流れが好きなのだ。
そして、長距離走者である、というのも、私の本性の一つだと思う。
長いスパンで種を蒔き、育て、収穫するというのが好き。
 
この前、息子のこども園の遠足のバスで自己紹介ということで「好きなことを言ってください」と言われ、その場で考えて言ったのは「走ることと野菜をつくることが好きです」ということだった。
この二つは、私の本質に根ざした営みなのだと思う。
 
それに加え、大学4年生の時から実際に使い始め、一時はそれが仕事のメインだったKJ法も、やり始めてからもう30年になる。
 
走ることと野菜を育てること、KJ法で図解を作りながら考えること。
この3つが私を形作っている3本柱なのかもしれない。
 
さらに言えば、トマティスメソッドも出会ってから15年が経ち、8年前からはそれを形にして後世に残す仕事をしてきた。
今では、トマティス博士や日原先生の言葉が内在化し、何かを考える際のベースになっている。
 
2011年に出会ったインタビューも、講座を受けたり、実践したり、本を読んだりしながら追求し続けているテーマだ。
 
2013年に春夏秋冬号を作った『ひたち帖』もずっと頭にあり、今も作り続けようと思っているメディア。
 
昨年から本格的に取り組み始めたマップづくりも、ここにきていろんな展開を見せつつあり、今もっとも追求したいテーマ。
 
歳時記も、20年以上前から追求し続けているテーマ。
 
本づくりも、『KJ法研究』をDTPでやろうとMacシステムを購入したのが1991年で、著者として編集・制作者としていろんな本や冊子等を作り続けているので、取り組み続けて26年になる。(その前に、1997年頃ミニコミ誌の編集長もしていたので、その時点からは30年になる)
 
思えば、いくつものことを長いこと続け、追求し続けている。
それが独り立ちする作品となりつつある手応えを感じているのが、今の時点なのかもしれない。

https://www.facebook.com/earandvoice/posts/1375094579194666
 
Twitterで久しぶりに余計なお世話のアドバイスをしてしまい、思いがけない反応を受けた。
こんなことを昨日書いていたのにね。


上記のツイートを呼び出すため、Twilogで「余計なお世話」で検索したら、以下のリツイートも出てきた。
押しつけがましい自己満足だったんだろうな。
私も痛いけれど、相手も大切にしていものを土足で踏まれたような感じを受けたのだろうか?
そんな意図はなかったけれど、距離感を見誤り、相手の状況への配慮が足りなかったのだろう。
 
余計なお世話は止めて、今自分のやるべきことに集中しよう!
7/2のクルミドコーヒーでのお話し会「小冊子『耳と聲』ができるまで、そして一冊の本へ」への準備は今日明日が勝負なんだよね。

里山こそが現代日本のフロンティアなのでは?

昨日、息子と一緒に堅破山に登りに行きました。
わが家から県道36号線〜グリーンふるさとライン〜高原経由で行ったのですが、登山口までが遠かった。
黒坂の集落は山の中にぽっかりと広がっていて、不思議な感じでした。
道は最後の500m以外は予想ほど悪くはなかったけれど、狭くて対向車がいたらどうすればいいんだろう?という感じ。
 
杉林の中を歩く登山道。
登り始めてすぐのところに後生車があり、歴史と宗教色を強く感じる山でした。
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不動石、烏帽子石、畳石、手形石と巨岩が続き、いよいよ太刀割石に対面。
聞きしに勝る不思議な石でした。
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頂上付近には、立派な黒前神社の社殿があり、頂上には螺旋階段の展望台がありました。
昨日は天気が悪くあまり展望は望めませんでしたが、天気がよければいわきの海や富士山まで見えるとのこと。
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展望台の上でおにぎりとおやつを食べて下山。
 
家に戻って、先日たかはら自然塾で購入した『堅破山 黒前神社ものがたり』をザッと読みました。
奥州征伐の大和軍が戦勝祈願したということですから、昔からの聖なる場所なんですね。(坂上田村麻呂八幡太郎義家、佐竹義昌も戦勝祈願をし、徳川光圀徳川斉昭らも参拝したそうです)
 
「茨城」の名前の由来もその本に載っていました。
大和軍の黒坂命が先住民が外に出て遊んでいる隙に住居である穴に茨(いばら)を仕掛けておいて、追い立て穴に帰ろうとしたところ突き刺さって死んでしまったのが由来とのこと。
大和朝廷から見たら、蝦夷征伐なのだろうけれど、征伐された側としてはとんでもない話です。
それが「茨城」の名前の由来とは、なんとも心痛い感じですね。
 
私は堅破山から北に100kmほどの阿武隈山地の山里に生まれ育った人間なのですが、私の中にも征伐された先住民の血や記憶は残っているのだろうか?
その記憶をなんらかの形で蘇らせることができたらいいなぁ!
 
ひたちの奥の奥の山里に分け入り、堅破山に登って、里山こそが現代日本のフロンティアなのでは?
と直観しました。

『夜と霧』を読んで考えたこと

FBでブログ「楽しい記憶の蓄積が生きる力の源になるのでは?」に内山さんが「「霧と夜」の中でビクトール・フランクルも同じ主旨のことを言っていました」とコメントくださったので、長年積ん読だった『夜と霧』を取り出し、昨日から読み始め、今朝読了した。

夜と霧 新版

夜と霧 新版

内山さんがおっしゃったのは、以下の記述かな?

「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべては現実のなかへ救いあげられている。それらもいつかは過去のものとなるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去であることも、一種のあることであり、おそらくはもっとも確実なあることなのだ。(p.138)

過去の記憶は、心の宝となり、今を生きる力となるのだろう。
 
ヴィクトール・フランクは、未来についてもこう書いている。

人は未来を見すえてはじめて、いうなれば永遠の相のもとにのみ存在しうる。(p.123)

未来を、自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。(p.125)

過去の豊かな記憶を思い出すとともに、信じられる未来を描けることが、今を生き生きと生きるためには必須なのだ。
 
そして、未来を信じられることの大切さを語った後、フランクは、「生きる意味を問う」という節で以下のように書いている。

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりのたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。(p.129〜p.130)

有名な「生きる意味についてのコペルニクス的転回」についての詳細は、こんな文章だったのか!

強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。(p.155)

マップづくりも、図解を作りながら考えを深める会も、未来の目的を見つめ、人生が自分を待っていることを思い出させうるものでありたい。

楽しい記憶の蓄積が生きる力の源になるのでは?

FBの「過去の今日」機能で、2年前の6/5の投稿がおもしろい!

「思春期までに、お金には換算できないような、計測不可能なところでどれだけ子どもとつきあってきたかです。「ああ、おもしろかった!」という体験を親子でどれくらいしてきたか。それはお金で買えるものじゃありませんから」(河合隼雄) #子育て

「記憶は人が生きてきた一番の証拠なんです…普段意識はしないけど、その人がその人である根拠って記憶が一番大きい。写真はその瞬間しか写していないけれど、その1枚を見たら前後の思い出が再生されるんですよね」(高橋宗正)
#ひたち帖

「写真はだいたい楽しいときに撮りますよね。だから楽しい記憶だけがどんどん蓄積されていく。そうして写真はその人の人生にとって楽しかったときのダイジェストみたいなものになっていく…だからこそみんな写真を撮るんだな」(高橋宗正)
#ひたち帖

dotplace.jp

楽しい記憶の蓄積が生きる力の源となる。
楽しいひと時を共に過ごし、それを記憶に残していく仕組みを工夫していきたい。